「今年はどんな年だった?」

この時期になると毎年そんな会話が多くなるけど、私はいつも「去年とそんなに変わらなかったよ〜」と答えている気がします。

 

というのも年末だけじゃなくて「最近何してた?」的な話題も私はあまり得意じゃなくて、「うーん、普段通りだよ?」となってしまいます。

たぶん実際に人よりもアクティブじゃないので変化が少ないというのはあるけど、にしても思いつかなすぎやしないか?という気がするので来年はエピソードトークを蓄えようと思います。

なんか去年も同じようなこと言ってたかも...

 

とはいえ今年も全く変化がなかったわけではございません。

1番大きな出来事としては引っ越しをしたことかなと思います。(この時点で本当にあんまり何もなかったことがお察しという感じかもしれませんが...)

そろそろ引っ越そうかな〜というときに「春原さんのうた」という映画を観ました。

話も面白かったのですが、それ以上に私は主人公の住んでいるアパートの部屋にすごく魅力を感じてしまい、その部屋みたいに風通しが良くてお風呂に大きめの窓があることを軸として部屋を探していました。

そうしたらちょうど理想に合った部屋が見つかり、しかも結構広かったのでそこに引っ越しを決めました。

住んでみて半年くらい経ちましたが、とても快適です。

1番のお気に入りポイントはやっぱりお風呂で、窓を開けて風を感じながら湯船に浸かるのが超サイコー!将来豪邸を建てることができたら絶対に露天風呂を作りたいです。

でも今住んでいる家はもう取り壊しが決まっていてあと1年も住めないのでまたお風呂に窓がある部屋を探したいと思います。

 

あと今年は自転車にいっぱい乗りました。

メルカリで6000円で買った自転車ですがなかなかグッドなパートナーになりました。

電車の便があまり良くないところに住んでいるのである程度の距離なら自転車で行けばいいなとなります。

そしてそのおかげでちょっぴり痩せました。というか全然食生活を気にしていなかったのに太らなかったのでラッキー♪という感じです。

でも来年はもうちょっと健康を目指して筋トレなどもしようかなと思います。

 

さっきまで『正解は一年後を』観ていて、私はこの番組が大好きなのでほくほくな気持ちです。

しかも今日なんとなくカルディで買った雲丹のり天がすっごく美味しくてさらに最高の夜になりました。雲丹のり天おすすめです。

 

そんなに大きなトピックはなかったけど、穏やかで良い年でした。

年末年始の雰囲気大好きだから終わらないでほしいな〜

良いお年を。

思い出のこと

めーちゃくちゃ久しぶりに下書きを掘り起こして書きました。たぶん書き始めたのは1年前くらい。

 

 

最も古い記憶はなんだろうか。

 

はっきり残っているものの中でかなり古いのは、小学校の入学式の時、校庭にある「よいこの山」というコンクリートでできた山の麓に座っている記憶だ。

不安で下を向いていたからか、その時履いていた靴下にプーさんのワンポイントが付いていたことを写真のように覚えている。

 

曖昧な記憶としては、幼稚園でハムスターにあげる用のひまわりの種をこっそり盗み食いしてたこともあった気がする。

どうしようもない少女だが、私の中にはまだひまわりの種を盗み食いするような魂が残っている気がする。

 

そんなことを書いていたら急に思い出した。

幼稚園で転んで擦りむくと、保健室でキズドライという薬を患部に噴射されるのだが、それが痛すぎるために怪我をしたことをなるべく隠していた。

目先の辛さを避けて後のことを考えない性分も残念ながら変わっていなさそう。

 

最近気付いたが、なんだか私は他人よりエピソード記憶が薄い気がする。

小さい頃なんて大体みんな覚えていないかもしれないけど、数年前の記憶もぼんやりとしていることが多い。

人の顔を覚えたり、試験勉強のような暗記をしたりすることは比較的得意だと思っているが、自分に関する出来事だけどうも覚えが悪い。

友達に「あの時こんなことあったよね〜」と言われても「はて?」みたいなことが多々あるし、あんまり「あ〜あれ楽しかったな〜」みたいにふと思い出すこともほとんどない。

まあ今を生きているということですね。キリッ。

 

思い出が薄いというのはなんとなく嫌だな〜と思っていたが、いい点もある。それは思い出が美化されないということだ。

そもそもあんまり覚えていないから美化されるも何もないのだけれど、あの頃は良かったなとか昔に戻りたいなとか思った試しがない。

だから結構いつでも、今が1番サイコーじゃん!と思っている。ハッピー野郎め。

 

 

全然関係ないけど最近レコードプレイヤーを買ったので皆さんのおすすめレコードがあればこっそり教えてください。

おやすみ。

熱はまだ出てない

ワクチンの2回目を今日打った。接種後の帰り道、体調を崩した場合に備えて解熱剤とお粥を買い込んでいるときにふと、これから先「明日は結構な確率で熱が出るよ。つらかったら休んでもいいんだよ。」と宣言されている日もなかなか無いんじゃないか、と思ってなんだかちょっとだけワクワクするような気分になり、アイスも何個か買った。

 

帰宅して何時間かしたら腕が段々と痛くなってきて、身体もなんとなく怠くなってきた。

ちょっとしんどいな〜と思いながらベッドに横になって本をペラペラ読んでいたら、なんだか急に不安なような悲しいような気持ちになってきた。普段はお気楽人間なので大体ハッピーなのだが、何故か明確な理由もなく気分が沈む。

どうしてなんだろう....と考えていると「もしかしてこれジェームズ・ランゲ説じゃない?」と思い付いた。ジェームズ・ランゲ説というのは、私も数年前に授業で習っただけなのでうろ覚えだが、身体の反応が先に起きて、それによって感情が引き起こされる、みたいな説だ。所謂「顔を無理やり笑顔にしたら楽しくなってきた」がこれにあたる。

で、私は「身体が怠いから気分が落ち込むんじゃないか」と思ったのだ。そう考えるとなんだが、そこまで気分も落ち込んでないような気がしてきた。

 

こういうことは日常生活でもよくある。「ああ、今こんな事が起きているから、こんな感情になるんだな」みたいなことを結構常に考えている。

これは曲がりなりにも心理学を専攻していた性みたいなものだろうと思っているのだが、結構これは一長一短だなと最近感じている。

良い点としては、基本的に冷静でいられるところだと思う。過度に興奮することもほとんどないし、激昂することもない。グラフでいうと+5くらいのところをいつも保っている感覚。

悪い点は、自分の感情がよく分からないという風に感じるとこが多くなってしまったことだ。何故だかよく分からないが、どういうメカニズムで今の感情が生まれているのか、ということがなんとなく見えると、そのときの感情が薄れるように感じることがある。種明かしされた後に手品をみるような、そんな何となく陶酔できないような気分になる。そうすると「あれ、今どういう気持ちなんだろう」と戸惑う。その戸惑っているのがそのときの感情なのだろうけど、不必要な戸惑いだなと私は思っている。

何年か前までは所謂感情論みたいなものをすごく毛嫌いしていて、感情を全部無理やりにでも何かしらの論理に押し込むことが正義のように思っていた。でも最近「感情だけじゃ結論は導けないけど、多少の感情論がないと何も始まらないな!?」みたいに思う気持ちも生まれ出している。これが環境によって生まれたのか、年を重ねたからそう思うのか、全くのポッと出の考えなのか分からないが、最近の私の中ではなかなか勢力を強めてきている説である。

結局まだ感情に対する向き合い方の落とし所は見つけられていないが、マイナスな感情はそれを分析して、プラスの感情は手放しで受け止める、みたいな形になれるのが理想だなと思っている。

 

なんだかちょっと頭が痛くなってきたような気がする。ワクチン接種の何日か前からポカリを毎日1L飲むと副反応が軽くなるという説を見かけて、全く信憑性はないが他に予防法も謳われていないので、藁にもすがる思いで数日前から律儀に毎日1Lのポカリを飲んでいた。もうそろそろ体液がポカリになった頃だと思うので、もしこれに効果があったらみんなにも勧めたいと思う。

では、明日起きたら元気なことを祈って、おやすみなさい。

お皿まで食べられる

やあ。

 

今日は「食べられるお皿」の話。

家に1人で居すぎて気でも触れたかと思っているかもしれないが、そうではない。はず。

 

今日、某短い動画で料理のレシピを紹介するサイトの動画をみていたら(全然本筋と関係ないが、こういうときに「見る」と「観る」どっちの漢字を当てれば良いかとっっても悩む。使い分けの意味はわかっていて、恐らく今回の場合は「観る」を当てるのが適切だろうが、「観る」という字をわざわざ選んで当てるような面倒くさそうな人に見られちゃうかな、とか考えている。そんなことを考えている時点でもう面倒くさいのは重々承知だけど。)、「お皿まで食べられちゃう!サラダボウル」的なものが紹介されていた。うすーいパンみたいなもので器の形を作ってその中にサラダを入れるというものだった。そこまで突飛な発想ではないし、私も「ほ〜 わざわざやらないけどおいしそう」くらいに思っていた。

 

でも、ここで急に違和感が降ってきた。「あれ?『お皿まで食べられる』って結構あるけど、これの魅力なに?」と思ったのだ。

お皿まで食べられるシリーズで1番よく見かけるのはポットパイ的なものだろうと思う。私も食べたことはあるし、好きだが、決して食べやすくはない。食べられないお皿に入ったシチューの隣にパイが置いてあった方がよっぽど食べやすい。

日常的に食事をしている中で「あ〜このお皿が食べられたらいいのにな〜」と思うこともまずない。でも食事を共にしている人に「このお皿、食べたいと思う?」と確認したことはないので、お皿を食べたい派がマジョリティの可能性も捨てきれず、もしそうだとしたら今回の話は無に帰すのだが、とりあえずはみんなもお皿は食べたくないということで話を進めたいと思う。

洗い物は楽かもしれない。でもお皿1枚を洗うのと、食べられるお皿を1枚作るのでは、恐らく圧倒的に前者の方が楽だろう。

じゃあ利便性も高くなく、日常的に望まれていることでもないとしたら、なぜお皿を食べられるようにする必要があるのか。仕事中にこんなことを結構な時間考えていたのだが明確な結論は出ず、もしかしたらこれは「かわいいから」に集約されてしまうのでは...?と思っている。

 

そう考えるとこの世の中には利便性を捨てても「かわいい」を追求しているものが結構ある。私が1番感じるのは、最近流行りの(もしかしたらもうブームは去っているかもしれないが)唇の水分量に反応して色が変わるリップである。リップなんて塗ったら何色になるか分かった方が便利で、というかもうそれが全てだと思うのだが、水分量に反応するリップは塗るまで色が分からない。私は比較的利便性を求めてしまうタイプなので「なんでそんな機能にするんだ...」と思っていたが、このタイプのリップは恐らくすごく売れていて、色々なメーカーのものがあるし、メイク紹介の動画などでもよく見かける。これも売れている理由は「かわいいから」に全振りしている気がする。(私は化粧品に疎いのでもしかしたらすごく役に立つことがあるのかもしれないが、その時はごめんなさい。)自分の唇の上に乗ってはじめて色が付くのは、確かにかわいい。なんだかオンリーワン感もあって乙女心をくすぐられる気持ちも分かる。

 

食べられるお皿と水分量で色が変わるリップというなんとも食い合わせの悪い羅列になってしまったが、かわいさを追求した結果人気のあるものというのは挙げきれないほどあると思う。そのセンスを持っていて初めに商品化した人には脱帽も脱帽といった気持ちである。

 

勇んで書き始めた割にはほわっとした帰結になったが、これもかわいさを残したためということにしておこう。

ここまで読んでくれた人には、冬にポットパイを食べたときに「これってなんのため?」と考えてしまう呪いがかかっていると思うので、理由が分かったら教えてほしい。

カレンダーに怒ってる

 

こんばんは。

 

今日はタイトルの通り、カレンダーに怒っている話。

 

私は仕事でデータ分析をしている。働いているのはゲーム会社なので、いつどのユーザーがどんな動きをしたのか、という情報が分析するデータの大部分を占めている。約1年この業務を行なってきて、私がフラストレーションを感じているのは、データ量が膨大なことでも例外がたくさんあることでもなく、「1ヶ月の日数が統一されていない」ということである。

ローデータが入っている基盤から必要なデータだけを取り出すという作業が仕事の中である。仮に1年分のデータを月毎に取り出す場合、1ヶ月が30日で統一されていれば、30日毎に取り出すという行為を繰り返す命令を入力すればいいだけなので一度で済むのだが、1ヶ月が30日だったり31日だったり、ましてや28日だったりするのでそう一筋縄ではいかない。実際には1項目だけのデータを取り出す場合には日数が違くても一発でできるのだが、複数のデータを組み合わせるとそうはいかないのである。(私の技術が及んでいない可能性は全く否定できないが)

なんだかどうにも上手く説明ができないが、とにかく1ヶ月の日数が統一されていないことで、手間が12倍とまではいかないが確実に数倍に増えるのだ。

 

こんなに悩まされるのだから、1ヶ月の日数が統一されていないことにはさぞ重大な理由があるんだろうと思い、調べてみた。

どの情報源が信用に値するのか分からなかったが(信用できそうな国のサイトには暦の歴史については不明瞭なことが多いと書いてあったのでどれも正解とは言いきれなさそうではある)、多くのものに書いてあったのは「深い理由はない」ということである。もう既に怒りそうだったのだが、一度その怒りを鎮めて詳しく調べてみた。

結果的には、ユリウス暦という現在使われている暦を作る際に奇数月を31日、偶数月を30日としようと決めて、でもそれだと1日余っちゃうね、ということで当時のローマの年末だった2月から1日取ったということが分かった。なんだかすごく、まあこれでいいや感が否めない。

だがよく考えなくても、今のカレンダーは奇数月が31日、偶数月は30日ではない。これはなんでですのというと、なんとめちゃくちゃ個人的な理由だった。ユリウス暦が作られたあとにローマ教皇となったアウグストゥスが自分の誕生月である8月を31日にしたかったらしい。奇数がラッキーナンバーだったんだって。ふーん。しかも9月が30日になったのは、3連続で31日が続くのはなんだか並びが悪い気がするからという理由らしい。2連続でも気持ち悪いだろ。

 

これらが現在、1ヶ月の日数が統一されていない理由らしい。御察しの通り、全く腑に落ちていない。知らずに享受していた方が良かったくらい腑に落ちていない。知らぬが仏である。

納得できる理由があったところで私の手間は変わらないのだが、もっと、それならしょうがないな〜と思わせてほしかった。そんなこんなでカレンダーへの不満が募ってしまったのである。

 

落とし所が見つからないので、ここに書くテーマが1つ増えたということで消化したいと思う。ブログは人類を救う。

 

 

p.s. 土日にずっとお酒を飲んでいたら自分でも分かるくらい脳が回っていなくて全然文章が上手く書けなかった。言い訳じゃないよ、ほんとだよ。

ずっと前の話

気付いたら土曜日もとっくに折り返しを過ぎていた。

今週は水曜日に有給を取ったのだが、これがとても良かった。連勤の最大値が2になることで、2日分の頑張りで1週間を終えられた。スタートダッシュのままゴールできたようなそんな感じだった。全然うまく表現できなかったが、きっとみんな水曜休みの素晴らしさは分かってくれると思う。

 

今朝目覚めてしばらく薄暗い部屋でぼんやりしていたら、急に昔のことを思い出した。

小学校2~3年生の頃、仲の良かった男の子にその子のランドセルに付いていたキーホルダーをもらった。タマザラシが鈴になったキーホルダーで、少し絵柄が剥げていた。私はそれが変わったアザラシだと思ったくらいポケモンに詳しくなかったし、お土産でもない所持品だったキーホルダーをくれる意味が全くわからず、「えっ、いいよ、なんで、いらなくなったの?」とかなり戸惑った。でもその子は頑なにあげると言うので、まあアザラシ可愛いしいっか、くらいの気持ちでもらった。そのキーホルダーは特にどこかに付けるでもなく、勉強机の上に置きっぱなしになっていた。

そんなことがあった話を友達にしたところ「それって絶対好きなんだよ!」と言われ、あまりの予想していなかった返しに私は驚いた。その驚きは、「あいつが...私を...す..き...?」というキュートなびっくりも含んでいたが、それよりも友達は私が理解できなかった行為を恋愛として変換できるのか、という尊敬のような気持ちが大部分を占めていた。

そんなこんなで私は勉強机に置いてあるキーホルダーのことが急に気になってきた。私は全然恋愛に無頓着でドラクエしかやっていなかったガールだったのだが、「いや、好きだったら新しいのをくれるでしょ...いやでも逆に自分のお気に入りをくれたの...?」と初めて男の子について悩んだのである。そして、一応ね、と誰にも聞かれていない言い訳をして、そのキーホルダーを宝物ボックスの中に入れた。

その後、その男の子とは特に何もなく、ちょっと年を重ねた私は普通にサッカー部のエースを好きになった。でももしかしたらタマザラシがいなかったら、私はエースも好きにならなかったかもしれない。

 

まだ私の中にはこんな物語が詰まっていたんだな〜とじんわりしたので、どうにかもうちょっと引き出していきたい。

 

今日は終わり。

あたらしい

こんばんは。

 

今日から社会人2年目がスタートした。といっても相変わらず在宅勤務だし、仕事内容も変わらないので節目感はまるでない。でも、出社している上司が、オフィスで作業している新入社員の様子をカメラ越しに見せてくれて、ちょっとだけ後輩ができたことを実感した。

新卒1年目が終わることは、免罪符がなくなったようで不安にもなるが、レベルアップの音が聞こえたようで心強くも感じる。そういえば大学の1年目が終わるときも同じような気持ちになったことを思い出した。

 

今までここの記事は敬体で書いていたが、今日から急に常体にしてみた。文章を書くにおいてはかなり大きな変化なので、急にそこをブラすのはどうなのよ、と自分でも思うが、絶対的なこだわりでもなかったので良しとした。

そもそもどうして敬体で書いていたかというと、無意識的に始めたことだったが、恐らく読んでくれる人を意識してだったのかもしれない。読書感想文の宿題だったり、レポートだったり、卒業生へのメッセージだったり、求められて書いた文章を誰かに読んでもらうことはあっても、ブログのように自発的に自分の書いたものを公開することはあまりしてこなかった。それなので、そういった自分から発信したものを読んでくれた人への敬意として敬体を使っていた、気がする。

そう言うと「今読んでくれている人に対しては敬意がなくなったのか!」と、けしからんおじさんが登場してしまうかもしれないが、もちろんそんなわけはなく、嬉しくありがたく思っている。しかし、自分が何か文章を読むときに、常体でも敬体でも敬意の感じ方(そもそもそんなものを意識したことは殆どないが)は変わらないなと思い、常体にしてみた。

すると今度は「じゃあ別に敬体のままでも良かったんじゃないの?」と、純粋疑問ガールが登場しそうだが、今回の変更は今後のために必要だった。なぜなら、敬体では語尾に振り回されるストレスを感じたのである。

「〜を観ました。そして〜と感じました。」と書くと、語尾が両方「ました」になってしまって、個人的には違和感を感じる。じゃあこっちの語尾をこうして、あっちをああして...なんてことを敬体の文章で書くときには考えることが多い。だが、「〜を観た。そして〜と感じた。」と書くと、美しいとは思わないが違和感が減る。やってることは敬体と同じなのだが、重なっている文字数のせいか、品詞分類のせいか、何だか理由は分からないが語尾を意識せずに書きやすい。わたしは文学部だったが、文章に関することを専門にしていなかったので、専門家から見たら暴論なのかもしれないが、ここはわたしの国なので暴君の意見が採用されたのである。

まあつまるところ、書くことへの手間を減らすためといった感じだろうか。

 

そんなこんなで書き方を変えてみたよ、ということが今日のメイン話題になってしまいそうだ。暫くブログから離れていたのでまだこれはリハビリということで。

前の記事にも書いたが、2021年度の目標は「自分のことを話す」なので、これからもっと色々なことを発信していきたい所存である。

なんだか図らずも新年度の決意表明のようになってしまったが、そうなってしまったことを逆手に取って、本当の決意表明としよう。

 

毎回終わらせ方に悩むので、今日は新しく覚えた言葉を書きたいと思う。

 

「春霖(しゅんりん)」

ー 春、3月から4月にかけて降る長雨。なたねづゆ。

 

 

ではまた。