お皿まで食べられる

やあ。

 

今日は「食べられるお皿」の話。

家に1人で居すぎて気でも触れたかと思っているかもしれないが、そうではない。はず。

 

今日、某短い動画で料理のレシピを紹介するサイトの動画をみていたら(全然本筋と関係ないが、こういうときに「見る」と「観る」どっちの漢字を当てれば良いかとっっても悩む。使い分けの意味はわかっていて、恐らく今回の場合は「観る」を当てるのが適切だろうが、「観る」という字をわざわざ選んで当てるような面倒くさそうな人に見られちゃうかな、とか考えている。そんなことを考えている時点でもう面倒くさいのは重々承知だけど。)、「お皿まで食べられちゃう!サラダボウル」的なものが紹介されていた。うすーいパンみたいなもので器の形を作ってその中にサラダを入れるというものだった。そこまで突飛な発想ではないし、私も「ほ〜 わざわざやらないけどおいしそう」くらいに思っていた。

 

でも、ここで急に違和感が降ってきた。「あれ?『お皿まで食べられる』って結構あるけど、これの魅力なに?」と思ったのだ。

お皿まで食べられるシリーズで1番よく見かけるのはポットパイ的なものだろうと思う。私も食べたことはあるし、好きだが、決して食べやすくはない。食べられないお皿に入ったシチューの隣にパイが置いてあった方がよっぽど食べやすい。

日常的に食事をしている中で「あ〜このお皿が食べられたらいいのにな〜」と思うこともまずない。でも食事を共にしている人に「このお皿、食べたいと思う?」と確認したことはないので、お皿を食べたい派がマジョリティの可能性も捨てきれず、もしそうだとしたら今回の話は無に帰すのだが、とりあえずはみんなもお皿は食べたくないということで話を進めたいと思う。

洗い物は楽かもしれない。でもお皿1枚を洗うのと、食べられるお皿を1枚作るのでは、恐らく圧倒的に前者の方が楽だろう。

じゃあ利便性も高くなく、日常的に望まれていることでもないとしたら、なぜお皿を食べられるようにする必要があるのか。仕事中にこんなことを結構な時間考えていたのだが明確な結論は出ず、もしかしたらこれは「かわいいから」に集約されてしまうのでは...?と思っている。

 

そう考えるとこの世の中には利便性を捨てても「かわいい」を追求しているものが結構ある。私が1番感じるのは、最近流行りの(もしかしたらもうブームは去っているかもしれないが)唇の水分量に反応して色が変わるリップである。リップなんて塗ったら何色になるか分かった方が便利で、というかもうそれが全てだと思うのだが、水分量に反応するリップは塗るまで色が分からない。私は比較的利便性を求めてしまうタイプなので「なんでそんな機能にするんだ...」と思っていたが、このタイプのリップは恐らくすごく売れていて、色々なメーカーのものがあるし、メイク紹介の動画などでもよく見かける。これも売れている理由は「かわいいから」に全振りしている気がする。(私は化粧品に疎いのでもしかしたらすごく役に立つことがあるのかもしれないが、その時はごめんなさい。)自分の唇の上に乗ってはじめて色が付くのは、確かにかわいい。なんだかオンリーワン感もあって乙女心をくすぐられる気持ちも分かる。

 

食べられるお皿と水分量で色が変わるリップというなんとも食い合わせの悪い羅列になってしまったが、かわいさを追求した結果人気のあるものというのは挙げきれないほどあると思う。そのセンスを持っていて初めに商品化した人には脱帽も脱帽といった気持ちである。

 

勇んで書き始めた割にはほわっとした帰結になったが、これもかわいさを残したためということにしておこう。

ここまで読んでくれた人には、冬にポットパイを食べたときに「これってなんのため?」と考えてしまう呪いがかかっていると思うので、理由が分かったら教えてほしい。